郡上八幡城にまつわる
歴史物語・伝説

Legendary story

歴史物語

山内一豊の妻・千代

郡上八幡には“内助の功”で有名な女性がいます。
2006年放送のNHK大河ドラマ「功名が辻」の主人公で一躍脚光を浴びた「千代」です。
大河ドラマでは司馬遼太郎の原作にならって別の地域の生まれとして描かれていましたが、千代は郡上八幡城の創始者・遠藤盛数の娘という説が有力です。

千代が幼少の頃に、父である遠藤盛数が病死。母とともに郡上を離れ波乱の幼少期を過ごし、その後、山内一豊の許へ嫁ぎます。
山内一豊は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康など時の覇者達に仕え、24万石の初代土佐藩主にまで駆け上がった武将です。その一大出世を陰で支えたのが千代の内助の功だといわれています。

  その中でも内助の功として有名なのが「馬揃え」の逸話。
一豊が馬揃えを目前に控えて困っていた時に、千代はいざという時の為にこっそりと貯めておいた10両を差し出し、駿馬を買わせました。その駿馬が時の大名 織田信長の目に留まったことが、一豊の出世の糸口となったといわれています。そのワンシーンを再現した一豊と千代の銅像が、城山公園(本丸跡地)に建てられています。

※千代の出自等は諸説ありますが、様々な資料より、千代が古今伝授の東家の血を引く女性であったという説が濃厚です。

歴史物語

宝暦騒動 (郡上一揆)

江戸時代 宝暦年間(宝暦4年~宝暦8年)に起こった、最大の百姓一揆。
年貢の取り立て方法変更等の厳しい藩政に対し、郡上の百姓たちが蜂起。当時の藩主・金森氏を改易に追い込むほか、老中・若年寄など幕府中枢の役人も失脚となる歴史的な事件。

郡上の歴史事件として有名で、郡上各地に義民の慰霊碑が建立されているほか、お城山中腹のホテル積翠園の駐車場にも宝暦義民の顕彰碑が建てられています。

郡上おどりの歌詞にもなって歌い継がれているほか、「郡上一揆」(2000年 監督:神山征二郎)として映画にもなっているので、ぜひ機会があればご覧ください。

おすすめ書籍
『歴史探訪 郡上宝暦騒動』(高橋教雄 著)

歴史物語

明治維新と郡上藩“凌霜隊”

全国諸藩が佐幕か新政府側か大きく揺れる幕末・明治維新の動乱の中、江戸藩邸の郡上藩士で結成された隊。
若干17歳の朝比奈茂吉を隊長に、藩士・小者45名からなる小隊で、幕府への義を貫くために、会津救援に向かいました。45名の小隊ではありましたが、郡上藩江戸藩邸の正規部隊として派遣されたため、スペンサー銃等 当時最新鋭の装備を備えた隊でもありました。

戊辰戦争において、新政府軍との苦しい戦いを続け、会津若松城(鶴ヶ城)の籠城戦では、白虎隊らと共に戦いぬきましたが、会津藩降伏後、国元(郡上)へ送還され、「藩命に逆らった」という言い渡しにより、揚り屋へ禁錮されてしまいました。
その後、郡内の寺社の計らいで長敬寺へ移り、自宅等での謹慎を経て、全てが解除されたのは揚り屋に入れられてから約15か月後のことでした。

悲しい歴史ではありますが、幕府への義を貫き通した誇り高い凌霜隊の歴史が広く知られることを願っています。
「凌霜」とは、霜を凌いで花を咲かせる「葉菊」のような強固な操の精神を意味する言葉で、郡上藩青山家の家紋「葉菊紋」に由来します。
お城の松の丸や、城山中腹に凌霜隊を顕彰する碑が建てられています。

おすすめ書籍
『歴史探訪 郡上凌霜隊』(高橋教雄 著)

民話

人柱伝説 およし物語

むかしむかし、お城の改修にまつわるお話。

ときの城主の命でお城の改修がおこなわれることとなりましたが、山頂という険しい地形の為か、石垣が何度も崩れ、柱がうまく立たない等、工事は難航を極めており、ついには「これは人柱をたてる必要がある」との決定がくだりました。
白羽の矢が立ったのは、神路村(かんじむら 現:大和町神路)の百姓 吉兵衛の娘で、数え年17歳の美しい娘 およし。
というのも、用材となる大木を伐り出して運搬する際、村の男衆でも難儀した大木の運搬をを不思議な力で手助けし、城下まで運んだという噂が普請奉行の耳に入っていたのです。
「不思議な力を持つ若い娘」というのは人柱としてはうってつけの人材でした。
悲しみに暮れる父母・村人ですが、お上の命令は絶対です。お城を護る為にと意を決したおよしは、秋深まる8月末(旧暦)の丑三つ時、吉田川の清流で身を清め、真っ白の振袖と帯を纏い、お城の下深くに眠りました。

郡上八幡の城下町が大きな自然災害無く今も美しくあり続けるのは、守り神となったおよしがこの地を護り続けているおかげかもしれません。
天守前の桜の丸に、およしを祀った社(悟竹院の奥の院)がある他、麓の善光寺にもおよし観音堂が建てられており、毎年8月3日の郡上おどり縁日は「およし祭」がおこなわれています。

※人柱伝説は史実ではございませんが、地元で語り継がれている民話で、様々な逸話がございます。

民話

赤髭作兵衛の力石伝説

江戸時代 寛文7年(1667年)、時の城主・遠藤常友によるお城の大改修にまつわるお話。

剣村(つるぎむら 現:大和町剣)に、郡上屈指の剛腕として知られている作兵衛という大男がいました。作兵衛は体毛が赤茶色だったことから通称「赤髭作兵衛」として親しまれていました。
お城の改修の際の人夫が各村々から集められ、作兵衛も普請に駆り出されることとなりました。

ある日、作兵衛が2つで約350kgもの大石を麓の河原から一人で背負いあげて運んでいるのを見た普請奉行がその力量を褒めたたえたところ、作兵衛は感激のあまりその場で卒倒して息絶えてしまいました。
哀れんだ奉行はこの石の使用を禁じましたが、昭和8年の城再建の折、放置されていたこの石が見つかり、「力石」として安置され今に続いています。

作兵衛は「赤髭明神」として、城山中腹(ホテル積翠園の駐車場)に祀られており、毎年7月末の郡上おどり縁日では「赤髭作兵衛慰霊祭」もおこなわれています。

※力石伝説は史実ではございませんが、地元で語り継がれている民話で、様々な逸話がございます。