郡上八幡の歴史

Gujo Hachiman's history

郡上八幡の創建

Founding of Gujo Hachiman

始まりは戦国時代末期。
永禄2年(1559年)、郡上領主である東常慶と遠藤盛数との間で「赤谷山城の戦い」という郡上支配をめぐる戦いが起こりました。その際に、盛数が構えた陣の場所が郡上八幡城の創始です。
その後、盛数の子慶隆が郡上を統一し、城や城下町を建設しました。

その傍ら、信長や秀吉に従って各地を転戦したのち、幕府の命令で賀茂郡小原へ領地を移す事となってしまいました。

天正16年(1588年)、慶隆に代わって領主となったのが、斎藤道三や織田信長に仕え活躍した稲葉一鉄の子、稲葉貞道です。貞道は、高い石垣の整備や天守台等を設置を行い、本格的な山賊として改修を行って旧態を一変させました。

江戸時代の郡上藩

The Gujo clan of Edo era

慶長5年(1600年)9月1日。
八幡城をめぐって、遠藤慶隆・金森可重連合軍(東軍)と稲葉貞通軍(西軍)との間で合戦が起こりました。この合戦が、関ヶ原の戦いの前哨戦の一つ「八幡城の戦い」です。

もとは八幡城主だった慶隆は、実は西軍に誘われていました。しかし、改易された秀吉への恨みから、東軍に加担する事を決意したと言われています。

最終的に関ヶ原の戦いで、家康に味方した東軍が勝利し、慶隆は八幡城奪還に成功しました。八幡城主に復帰した慶隆は、改修を終えた城に入りました。

慶隆は八幡城主としては2代目と4代目ですが、江戸幕府が認めた郡上八幡城城主としては初の城主となります。

寛文7年(1667年)、慶隆の孫の常友は、城下町や城の大改修を行い、幕府より名実ともに城主として認められました。
この常友が行った大改修が、今の郡上八幡城の礎になったのはもちろんの事、承応の城下町大火によって失われた城下町を、用水路の整備などを通し、火災に強い城下町=水の城下町として郡上八幡を再生させたのです。

江戸幕府郡上八幡城5代目城主まで遠藤氏が続きますが、その後、井上氏・金森氏と続き、宝暦年間に起こった農民による「郡上一揆」により、金森氏は改易となってしまいます。

この郡上一揆は、足掛け5年にもわたる大規模なもので、最終的には農民側の勝利に終わるという他に類をみないものでした。その歴史は2000年に映画化もされ、監督は岐阜県出身の神山氏がメガホンをとった事で話題になりました。

金森氏の改易後、入部した青山氏が7代に渡って100年以上の治世を続け、明治に行われた廃藩置県まで続きました。

慶応4年(1868年)、明治維新の激動の時代。
新政府軍と旧幕府軍との間で「戊辰戦争」が勃発。
17歳の朝比奈茂吉を隊長に、郡上藩士45名による“凌霜隊(りょうそうたい)”は、旧幕府軍として、新政府と苦しい戦いを続けました。会津若松城の籠城戦では、白虎隊とも共に戦ったそうです。

“凌霜”とは不屈不当の精神を意味し、今の郡上の人々にも受け継がれています。

明治2年(1869年)に青山幸宜が版籍を朝廷に返上し、郡上藩知事となり、翌年の5月に「郡上城撤去伺」が出され、同年7月より一ノ門から取り払いが始まりました。

明治4年(1871年)廃藩置県により、郡上藩は廃藩となり、9月に知藩事である青山幸宜が東京に出立し、郡上八幡城は廃城。こうして、郡上藩四万八千石は終息を迎えたのです。

明治以降の郡上八幡城

Gujo Hachiman Castle after the Meiji era

廃城の翌年の明治3年(1870年)に、八幡城は石垣だけを残して、他は取り壊されてしまいました。現在の城は昭和8年(1933年)に、大垣城を参考に模擬天守として造られたものです。
当時の八幡町長、仲上忠平の決断のもと、郡上八幡城天守台跡に天守閣、隅櫓、高塀を再建。模擬天守としては珍しい“木造”で造られた八幡城の擬似天守は、現存する“木造再建城”としては日本最古として知られています。

昭和30年(1955年)に全ての石垣が「岐阜県指定史跡」に指定され、その後昭和62年(1987年)に木造4層5階建ての模擬天守は「郡上市有形文化財」に指定されました。