歴代城主一覧
Successive lord of castle
城主代数 | 郡上藩主代数 | 城主名 | 官位・主な職務 | 在任年号 | 在任期間 | 在任年数 | 石高 |
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初祖 | 遠藤 盛数(えんどう もりかず) | 永禄2年 同5年 |
1559 1562 |
3 | |||
初代 | 遠藤 慶隆(えんどう よしたか) | 但馬守 | 永禄9年 天正16年 |
1566 1588 |
22 | ||
2代 | 稲葉 貞通(いなば さだみち) | 右京亮 | 天正16年 慶長5年 |
1588 1600 |
12 | 4万石 | |
3代 | 初代 | 遠藤 慶隆(えんどう よしたか) | 但馬守 | 慶長5年 寬永9年 |
1600 1632 |
32 | 2万7千石 |
4代 | 2代 | 遠藤 慶利(えんどう よしとし) | 伊勢守 | 寬永9年 正保3年 |
1632 1646 |
14 | 同上 |
5代 | 3代 | 遠藤 常友(えんどう つねとも) | 備前守 | 正保3年 延宝 4年 |
1646 1676 |
30 | 同上 |
6代 | 4代 | 遠藤 常春(えんどう つねはる) | 左衛門佐 | 延宝4年 元禄2年 |
1676 1689 |
13 | 同上 |
7代 | 5代 | 遠藤 常久(えんどう つねひさ) | 元禄2年 同5年 |
1689 1692 |
3 | 同上 | |
8代 | 6代 | 井上 正任(いのうえ まさとう) | 中務少輔 | 元禄5年 同6年 |
1692 1693 |
1 | 5万石 |
9代 | 7代 | 井上 正岑(いのうえ まさみね) | 大和守 寺社奉行 |
元禄6年 同10年 |
1693 1697 |
4 | 同上 |
10代 | 8代 | 金森 頼旹(かなもり よりとき) | 出雲守 | 元禄10年 元文元年 |
1697 1736 |
39 | 3万9千石 |
11代 | 9代 | 金森 頼錦(かなもり よりかね) | 若狭守 奏者番 |
元文元年 宝曆8年 |
1736 1758 |
22 | 同上 |
12代 | 10代 | 青山 幸道(あおやま よしみち) | 大和守 | 宝曆8年 安永4年 |
1758 1775 |
17 | 4万8千石 |
13代 | 11代 | 青山 幸完(あおやま よしさだ) | 大膳亮 若年寄 |
安永4年 寛政3年 |
1775 1791 |
16 | 同上 |
14代 | 12代 | 青山 幸孝(あおやま ゆきたか) | 大蔵少輔 社寺奉行 |
寛政3年 文化12年 |
1791 1815 |
24 | 同上 |
15代 | 13代 | 青山 幸寛(あおやま ゆきひろ) | 播磨守 | 文化13年 天保3年 |
1816 1832 |
16 | 同上 |
16代 | 14代 | 青山 幸礼(あおやま ゆきのり) | 播磨守 | 天保3年 同9年 |
1832 1838 |
6 | 同上 |
17代 | 15代 | 青山 幸哉(あおやま ゆきしげ) | 大和守 寺社奉行 |
天保9年 文久3年 |
1838 1863 |
5 | 同上 |
18代 | 16代 | 青山 幸宜(あおやま ゆきよし) | 大膳亮 郡上藩知事 |
文久3年 明治2年 |
1863 1869 |
6 | 同上 |
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永禄2年(1559)、盛数が東氏を滅ぼし、八幡城の基を築きました。2代慶隆のとき、秀吉の不興を買い、加茂郡白川1万3千石に左遷されましたが、八幡城の戦いの後、郡上に復帰しました。常友の時、城下町が整備されました。その後、常春が11歳で家督を継ぎましたが、23歳で病死し、常久が4歳で藩主となりました。常久はお家騒動のなか7歳で夭折し、郡上領2万4千石は幕府に没収されました。しかし、幕府は、遠藤家を惜しみ、大垣藩戸田氏の胤親を養子に1万石を与え転封させ、近江の国三上遠藤として幕末まで続きました。
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稲葉一鉄は、美濃斉藤家の重臣で、美濃3人衆に数えられ、その後、織田信長の下で活躍、勇将の名をはせました。貞通は、その稲葉一鉄の嫡男で、遠藤慶隆の転封後、美濃の国曽根城から八幡城に入部しました。貞通の時代に、八幡城の全面改修を行い、天守台を建て、現在の城の原型を整えたと伝えられています。関ヶ原の戦いの直前、西軍に属していましたが、八幡城の戦いの後、遠藤氏と和睦し、東軍として参戦しました。その後、豊後の国(大分県)臼杵5万石の城主に移封され、幕末まで至りました。
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元禄5年(1692)遠藤氏移封の後、井上正任が常陸の国(茨城県)笠間城主から郡上城主として入部しました。正任は入部後1年をたたず、二男正岑が家督を継ぎました。
井上氏は郡上在住5年で、丹波の国(京都府)亀山城主に移封されました。
正岑は郡上移封後、若年寄、老中と権力の座にのぼりつめました。とくに、8代将軍吉宗の就任には大きな役割を果たしました。
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金森家は、織田信長、豊臣秀吉に従い軍功をあげ、代々飛騨の国を領有した名家です。頼旹(よりとき)は、4歳で家督を継ぎましたが、元禄5年(1692)、出羽の国(山形県)上ノ山に転封され、5年を経ずして郡上藩に転封されました。頼旹の政治姿勢は清貧で、領民に寛大であったと伝えられています。頼錦は、頼旹の孫にあたり、元文元年(1736)、23歳で家督を継ぎました。頼錦は、風雅を好み温和な性格で詩歌に親しむ文化人でした。しかし、 在任中百姓一揆(宝暦騒動)が起こり、宝暦8年(1758)お家断絶となりました。
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郡上の青山氏は譜代大名で、丹波篠山藩を本家とする青山氏の支族です。宝暦8年(1758)、幸道の時、丹後(京都府)宮津藩主から郡上藩主となりました。以来7代、若年寄や寺社奉行など幕府の重職を担い明治維新を迎えました。東京の青山には、青山氏の下屋敷がありました。また、凌霜隊の戦いなどが有名な史実として残されています。